2018年12月02日

一年で一番の繁忙月12月スタートの1日、土曜日でしたが、急遽休ませて頂きました。予約変更して頂いたお客様、申し訳ございませんでした。

11月30日金曜日の午後から1泊で実家のある新潟県旧中条町に行ってきました。僕の弟の通夜、葬儀参列の為です。
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人口約3万人の地元胎内市。お通夜には300名を超える方達が参列してくださりました.

数年前に肝硬変を患った弟が11月27日に亡くなったのです。享年39歳、今年の9月30日に満38歳になってから2カ月あまり。

11月27日火曜日昼頃に地元にいる叔母から弟が危篤と知らせを受けました。2日前の25日に意識、反応がなくなったと聞いてからわずか2日目でした。

意識がないと聞いた時点では、奇跡的な復調もと思いましたが、危篤となりついにその時が来るのではと用意を急ぎました。

クルマで帰省するにあたり、万が一の雪にも備える為にスタッドレスタイヤに交換。タイヤショップで叔母に弟の様子を聞くべく電話した時、まさに弟最期の瞬間とほぼ同時でした。

亡くなったのが火曜日、その後のお通夜、葬式の日程が決まるのを待ちました。金曜日が友引の為、土日に葬儀があたるのではないかと。

大事な弟との別れにもかかわらず、もし土日に葬儀があたったら参列せず仕事することも考えてしまいました。

27日火曜日夜、ようやく式の日程が決まったと叔母より連絡、30日お通夜、1日葬儀の日程でした。金曜日は元々休みで、1日土曜日も幸いにまだご予約が少なく、予約の方全員に連絡が取れて予約を調整できました。

子供5人の我が家、12月1日期末テスト最終日の中1次女以外は金曜日休みを取ってくれました。

次女の期末テストが終わった昼頃、家族7人で弟が待つ地元へクルマを走らせました。

お通夜が18時から、スムーズにいけばお通夜が始まる前に到着できる予定です。

新潟へ帰る際、今は圏央道ができて楽になりました。町田からは愛川相模原ICで高速に乗ります。

その高速まで思いのほか渋滞。そう!その日11月30日はいわゆる5、10日、しかも月末で週末の金曜日。一般道が混むのは必然でした。

普段より時間かかって高速に、小1時間走ったところでにトイレ休憩。

運転中、普段は何か急な連絡ないか気にするスマホをトイレ休憩まで見るのを忘れていました。

叔母から13時半にLINEが。

「今から出棺し荼毘にふします」と・・・

まったく分かっていませんでした。痛恨の極み。

一般的には葬儀後火葬の流れ、てっきり1日の葬儀後の火葬と思い込んでいました。

地元の慣習では、葬儀前に火葬だったのです。思い起こせば、何度か参列した葬儀の際いつも火葬後でした。
火曜日から出発の金曜日まで、仕事の事などばかり考えて、まったく気づく事できませんでした。後悔しかありません。

クルマを走らせ、関越トンネルを抜けると、雪はないものの景色は一変、冬のような空でした。

お通夜が行われる会場に直行、着いた時刻は17時半過ぎでした。

会場周辺はクルマの駐車場待ち状態。既にメインの駐車場はクルマで溢れ、近くの第2駐車場へ。

会場の遺族控室に入り、急いで喪服に着替え。ロビーは人が大勢。

気丈に対応する母とようやく顔を合わせて間もなく会式でした。

弟の生き方を象徴するような式だったような気がします。母と叔母がなんとなく想定したお通夜の参列者200名に対し、300名以上参列頂きました。

子供のころからずっと地元で育った弟。地元に根差して生きてました。

紆余曲折を経て、母が元々やっていた店を継いでショットバーをオープン。

お祭りが大好きで、祭りの際は店の稼ぎ時にも関わらず完全休業で山車の会で大活躍。

僕自身地元を離れ、弟を全く理解していなかったので、葬儀は密葬、家族葬でこじんまりと行えば良いのにと思ったのでしたが完全なる僕の勘違い、思い違いでした。

実感がまったくわきません。

父が亡くなった時もそうでした。なんだか他人事のような。それでも、父の棺を最期火葬する為に鉄の扉の中に入れたときは号泣してしまいました。

お通夜に向かう道中、式の合間の時間とにかく暗くならない。

我が家の4歳と6歳の息子たちのパワーは凄いのでした。

悲しい場を悲しくさせない。悲しませてもらえないような。

昨日地元からの帰路、そんな子供達がクルマの中で寝静まっている時ふと泣きそうな瞬間が何度かありました。

こういう時って泣ける方がいいですね。なんだか今のところ、ケリがつかないです。気持ちの整理がつきません。泣いてしまいたいです。

一方で、チビ達の笑顔やバカな話を聞いて、幸せというか、救われるのも確かです。

葬儀の後、住職から列席者に話がありました。

僕の父が亡くなった20年ほど前から親交のあるお寺の住職。何年か前に地元のクアハウス(お風呂)で弟と会われたそうです。その際に弟の病気を知り、それが最後に会った時だったそうです。

住職がこうおっしゃっていました。人の幸せは他の人や誰が決めるものでもない、自分が決めるものであると。38歳で亡くなった弟への言葉でしょう。

弟に対しては、気前がいいとか太っ腹とか、人付き合いが良いとか顔が広いとか、そのような言葉が多く聞かれました。そのように思われるのは、きっと亡くなった僕の父の血だと思います。

僕はといえば、弟とは逆の性格というか、立場というか。父のようにならないようにと子供の頃に思ったほどなので。

父が亡くなったのが51歳、太く短い人生だったその父と比べても早すぎる弟の38歳をどう受け止めていいものか。

こんな兄で弟には申し訳ない気持ちでいっぱいです。

(書きかけ)

この記事書きかけから3週間以上が過ぎました。本日12月29日、年内営業残り2日の朝です。

弟の葬儀に際し実はあまり悲しさはありませんでした。とりわけ亡骸との対面がなかったことは大きかったと思います。

しかし、葬儀から戻ってきてからは精神的にやられました。なんとも言えない虚無感、喪失感。

男兄弟、離れて暮らしていることもあり関わりが薄かった弟でしたが、あの日から毎日弟のことを思い出しています。

父が亡くなった時と同じ、生きている時は離れている気しかしなかったのに、死んだ途端に身近にいつもいる感じ。

そしてあれからもう1カ月が過ぎました。

例年と比べて怖くなるほど12月前半のbleuは静かな日が続きました(^^;)

今年のお客様は年末集中、最後の最後に年末らしくなった感じです。

人間暇だと気持ちも良くない方向に引きずられますね。先日まで何か切ない余韻を引きずり、ネガティブな事ばかり考えていました。

ようやく忙しくなり、気持ちも少しだけ持ち直しました。

気持や感情、心がおかしくなりそうだった時、はじめて弟の気持ちの一端が理解できた気がしました。

弟は5年ほど前から肝硬変になり闘病していました。肝硬変の原因はアルコール、アルコール性肝硬変でした。

西原理恵子の著書で、アルコール依存症患者はだらしがないとか人間性に問題がある訳ではないと書かれていたのを読んだことがあります。アルコール依存症患者は体質的にアルコールがまるで覚せい剤のよう働きをしてしまうみたいな事が書かれていました。

弟が最初に肝硬変で病院に救急搬送された際、正直なんでそんな事になったのか理解できませんでした。そんな事になるまで酒を飲んでいた印象がないのです。

肝硬変になる前、僕が帰省の際に会った時にアルコール依存の気配は全く感じなかったのです。

実家の母などから聞いていたのは、パニック障害になったらしいとのことぐらいでした。心のバランスを崩し、仕事ができない事があるとは聞いていました。

それがなぜ肝硬変になるまでアルコールに依存していったのか、理解が出来なかったのです。

しかし、今回僕自身わずかではありますが実体験で理解しました。

精神的、心の不調をアルコールで紛らそうとする。アルコールの効果で飲んでいる時不調が紛れやすくなります。

体質的にあまり酒が飲めない、またはたくさん飲めない人でもそういう事をきっかけに飲めるようになってしまう事もあるようです。

元々飲酒習慣のある人の場合、飲酒量がどんどん増えてしまい、そのうち幾ら飲んでもストップが効かなくなる、それがアルコール依存症なのでしょう。

普段からそこそこ晩酌で飲んでしまっている僕ですがあせあせ(飛び散る汗)
最近はさらに飲んでしまっていました。

そして、なんとなく弟の気持ちの少しが分かってしまった気がしました。

辛かったと思います。自分でも分かっていながら、どんどん抜けられない沼地にはまっていくような状況だったと思います。

もしアルコールではなく他の薬物だったら、アルコールよりむしろ自分の身から遠ざけるのは容易かもしれません。しかし、アルコールはコンビニでも買えてしまうのです。

きっと毎日アルコールをやめたいと思っていたはずです。でも、精神が壊れ、それができず、悪いスパイラルから抜けられず苦しんでいたに違いません。

弟の事をこれからもずっと考えていきます。

書きかけのblogも今ここで書き終え、生きている僕達は一生懸命頑張るのみです。

誠!これから今までできなかった話たくさんしような。今まで話せなくてごめんな。とりあえず、俺は仕事頑張るから、ひとまず、じゃーね!!
posted by オガタ at 09:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 私事